【シリーズ・ふるさと日立大使 Interview】本間 幸司さん

本間 幸司/水戸ホーリーホックCRO
市では、日立市出身または日立市にゆかりがあり、芸能やスポーツなどさまざまな分野で活躍する方を「ふるさと日立大使」として委嘱しています。
このシリーズでは、大使の皆さんをお一人ずつクローズアップしてご紹介します。
今回ご登場いただくのは、プロサッカークラブ・水戸ホーリーホックの“守護神”ゴールキーパーとして活躍された本間幸司さん。
2024年に、29年間の現役生活を終え、新たにクラブリレーションオーガナイザーとして活動されている本間さんに、サッカーや日立市への思いなどについて伺いました。
サッカーに出会った幼少期
サッカーを始めたきっかけは?
「キャプテン翼」が流行っていたこともありますが、当時の日立市はサッカーがとても盛んで強かったんです。小学生の頃も、日立市内で選抜メンバーを作ったりしてましたね。
僕の両親も茨城県外の出身なんですが、当時の日立市は、全国各地から日立製作所関係者が集まっていたので、同級生に面白いやつらがいっぱいいました(笑)。特に、小学生の頃は、よく放課後に、小学校の校庭に集合してランドセルをポイって投げてサッカーやってたりして遊んでました。僕は、小学校の近くに住んでいたので、幼稚園生の頃から近所のお兄ちゃんたちが遊んでいるサッカーに混ぜてもらっていたのが、サッカーをやり始めたきっかけですね。両親は、バレーボールをやっていたので、僕にもやらせたかったみたいですけど(笑)。
なぜゴールキーパーというポジションを?
小学校高学年までは、フィールドプレイヤーをずっとやっていたんです。一つ年上で元日本代表の鈴木隆行くんたちがいた日立選抜チームが、全国ベスト4になっていたので、それに負けないような強いチームを作るために、良いゴールキーパーが必要だったみたいで、たまにPK戦で経験のあった僕にやらせてみたらどうだ?っていう話があったのがきっかけですね。正直、ゴールキーパーはやり返すことができないポジションなので、点を取られた時の悔しさを受け入れることがなかなかできず、ゴールキーパーを好きになるのにはとても時間がかかりました。
地元愛とサッカー愛
水戸ホーリーホック現役時代で特に記憶に残っている思い出は?
特に記憶に残っているのは、東日本大震災の頃ですかね。
僕たちも被災しましたが、その頃は、みんながなかなか明るい気持ちになれない中で、自分たちは街の復興にどう関わっていけるのか、クラブを通して少しでも街を元気できないかと考えていました。その頃から、ボランティア活動などを通して地域の皆さんとの繋がりが深まっていき、水戸ホーリーホックの存在を世間に認めてもらえるようになったのかなと感じますね。
また、当時は震災の影響でJリーグの試合が中断されていましたが、被災地でいち早く活動を再開したのは、水戸ホーリーホックだったんです。再開直後の試合が、とても奇跡的な逆転勝利を飾ることができたので、それもよく印象に残っています。震災直後で、サッカーをやっていて良いのかという葛藤はありましたが、「感動を与えるプレーで地元へメッセージを伝えたい。」「地元に少しでも明るいニュースを届けて、みんなの笑顔を取り戻したい」という思いが強かったと思います。
浦和レッズとのめぐりあわせ
実は、Jリーグの初の公式戦が、プロサッカー選手として最初に所属した古巣の浦和レッズだったんです。まさか、浦和レッズがJ2に降格し、水戸ホーリーホックも奇跡的にJ2に昇格をして、さらに開幕戦で戦うことになるなんて、本当に奇跡的なめぐりあわせですよね(笑)。
当時は日立市民運動公園陸上競技場が水戸ホーリーホックの準本拠地として、ホームゲームが開催されていて、浦和レッズ戦も行われているんです。浦和レッズのサポーターの大軍隊が観客席を真っ赤に埋め尽くして、市民運動公園がジャックされたような感じでしたね(笑)。小野伸二選手も出場したりして、すごい大歓声でした。試合には負けてしまいましたが、すごい数のシュートを打たれて、30本以上のシュートを止めましたね。僕が昔から使っているグラウンドに、僕のいるチームと僕が元いたチームで試合ができたことは、めちゃくちゃ良い思い出になりました。
多くの選手との関わり
ターニングポイントとなった出会いはありましたか?
たくさんあります(笑)。まずは、浦和レッズに在籍していた頃にお世話になった岡野雅行さんですね。日本をワールドカップ初出場に導いた立役者なんですが、本当に仲良くさせていただいていて、ワールドカップにも同行していました。岡野さんの近くにいて、1つのゴールで人生が変わってしまう瞬間を近くで見られたのは、すごく大きな経験になりましたし、サッカーの偉大さや影響力の大きさを肌で感じることができました。
水戸ホーリーホックは、入れ替わりの激しいクラブということもあり、500人を超える選手たちとともに切磋琢磨していました。みなさんが知っている選手だと田中マルクス闘莉王とかですね。当時の彼は、水戸ホーリーホックでダメだったらブラジルに帰るというような状況でしたけど、水戸ホーリーホックの選手たちがハングリーな環境下でサッカーをやっていたのを見て、「ブラジルよりハングリーだよ」なんて言ってました(笑)。田中マルクス闘莉王のほかにも、水戸ホーリーホックの現監督の森さんがいたり、時期は異なりますが、水戸ホーリーホックのユース現監督の冨田さんがいたりと、当時一緒にプレーしていた彼らがOBとなって水戸ホーリーホックに帰ってきてくれて、クラブを一緒に作ってくれているんです。そういった「水戸ホーリーホック愛」を持っている人たちと、また一緒にこのクラブをより良いものにしていきたいと思っています。
当時を思い返すと、水戸ホーリーホックはお金もないし、練習環境も今より整備されていなくてすごく苦しかったけれど、そこには、サッカー愛に満ちていて純粋にサッカーを楽しむ選手ばかりでしたし、良い環境でサッカーしているやつらには負けたくないっていう、ハングリーな選手が多かったと思います。今でこそ、こんなに良い環境でサッカーができるのは、本当に先人たちのおかげなので、これからもその先人たちの想いを大切にし、彼らが水戸ホーリーホックにいたことを誇りに思えるようなクラブにしていきたいと思っています。
29年もの現役生活を過ごせた秘訣
たくさん試合に出たなっていうよりは、もっといっぱい出たかったなっていう思いの方が強かったです。プロである以上は、みんな試合に出たくて出たくてしょうがないんですよね。
ただ、長く続けられたのは、健康な体に育ててくれた両親のお陰です。そして、地元でサッカーができたことが大きな原動力になったと思います。仲間や家族が近くにいたことがすごく心の支えにもなりましたし、茨城でサッカーを始めて、サッカーをやり尽くして、茨城でサッカーを終えるって今思うと素敵なことなのかなと思いますね。あとは、僕の大先輩で今でも現役でプレーしている三浦知良さんと食事したりお話する機会があって、食事や睡眠など健康面でとても参考になるアドバイスをいただいたりもしました。
それでもやはり人間ですから、「もういいかな」なんてモチベーションが下がってしまうこともあると思います。苦しくて辞めようか悩んだり、何度も心が折れそうになったことがありましたが、偶然、今はファジアーノ岡山で監督をしている元チームメイトの木山隆之さんがリーグ最年少監督として、水戸ホーリーホックに戻ってきてくれたり、子どもが生まれたりといった環境の変化があったんです。また、地元の日立市がすぐに帰れるところにあって、苦しいときにはガキの頃から知っている仲間と美味しいものを食べたりして息抜きできたことも大きかったと思います。自分のためだけであれば、そのまま諦めてしまったかもしれませんが、支えてくれている「仲間のために」「家族のために」「地元のために」といった、周りの人たちに恩返しをしたいという思いが自分に大きな力を与えてくれたんだと思います。
一生懸命続けていると正解になっていく
高校生の頃、ヨーロッパに遠征に行った際に、ヨーロッパのクラブからオファーをもらったことがあるんです。Jリーグができて間もないときだったこともあり、日本でプレーすることを選んじゃったんですけど、もしオファーを受けていたら、地元でこんなに長くサッカーをやれることはなかったと思いますし、今の状況とは大きく変わっていたと思います。そういう意味では、Jリーグに残ることを選んだ自分の選択は正解だったと思いますね。当時は、「選択を間違えたかなぁ」なんて思ったりしたこともありますけど、一生懸命続けているとやっぱり自分の選んだ方がだんだん正解になってくるのかなと思っています。
ただ長く続けたくてやってきたというよりは、「愛するサッカーに失礼がないよう」という思いでやってきて、気が付けば29年経っていたっていうような感じでした。その29年もあっという間で、夢のような時間でしたけどね。
子どもの頃と親になってからの日立市
日立市の思い出の場所は?
鮎川町に住んでいて海が近かったので、友達とよく鮎川から川下りをして海に出たり、八反原(はったんばら)や河原子の海などでも遊んでいました。家族とお弁当を持って、小木津山自然公園で紅葉を見ながらハイキングしたりもしましたね。
先日、成沢小学校に行く機会があり、小学生に遠足先を尋ねた時に、今もかみね公園に行っていると聞いてすごく嬉しかったです。当時の思い出は今でも残っていて、大人になってから、かみね公園に行きたくなる瞬間があるんですよね。
子どもができてからは、自分の育った街をしっかり見せてあげたくて、よく実家にも帰るようになりました。かみね公園やかみねレジャーランドには、子どもの時より、親になってからの方がいっぱい行ってるかもしれないかなぁ(笑)。
スポーツは楽しむことが大切
本間さんのようにプロのスポーツ選手に憧れている子どもたちへアドバイスをお願いします。
「夢はサッカー選手」という小学生にどんなサッカー選手になりたいの?って質問すると、「メッシ!」とか「ネイマール!」って返ってくるんですよね。みんな本気で思っていて、それはすごく大事なことだと思うんです。その情熱をいつまで続けられるかが大切だと思いますが、そうなるためには、まずサッカーをたくさん楽しむってことが大事なんです。
ただ、「楽しむ」ということを、ふざけたりすることとは間違えないでほしくて、一生懸命に取り組んだ先にある楽しさを見つけてほしいしと思っています。
今試合に出られなかったとしても
今レギュラーや試合に出られない子たちにも伝えたいことがあります。プロの選手には、元からすごい選手もいるけど、意外とそんな選手ばかりじゃないんです。中学や高校ではあまり試合に出られなかった人でも、今はプロの世界で活躍している選手はたくさんいるんです。
今が上手くいかないからとか、試合に出られないからとかで、諦めないで欲しいです。好きであるならなおさらです。いつ伸びるのか、いつスイッチが入るのかなんて分からないので、自分の可能性を自分で諦めるようなことはせずに続けてほしいと思っています。多分、好きだったら努力しているって自覚がなく、自分に必要なことを当たり前のこととしていっぱい練習しているかもしれないけど、そうやって諦めずに続けた先には、素晴らしい世界が待ってるよって約束できます!
ふるさと日立大使として
サッカーの経験を通して僕ができることがあれば何でもしたいし、喜んで力を発揮していきたいです。今年は、日立さくらロードレースに呼んでいただき5キロの部のスターターを任せていただいたり、小学生の部で子ども達と一緒に走ったりしましたが、いろんな人たちに声を掛けてもらえて、すごく温かい気持ちになりました。
僕が幼い頃と比べると、日立市の街は少し寂しくなってきている気もするので、盛り上げられるイベントに参加して日立市を元気にできたら良いなと思っています。1人ではなかなか大きな力にならないかもしれないけど、ふるさと日立大使の皆さんと日立の魅力を発信したりして繋がりを強くしていきたいです。
みんなで子どもたちの笑顔が生まれる街に
最後に、日立市民へメッセージをお願いします。
たくさんの仲間やご縁のあるひとたちによって、僕を作ってくれた街であり、日立市は僕の礎となった街なので、本当に感謝しています。現役を引退してからは、日立に帰ることが増えていますし、日立で活動することも多くなっているので、見かけたら気軽に声を掛けていただけると嬉しいです。日立市は、海があり山があって、ロケーションも最高ですが、寒暖差もあまりなく住みやすい街なので、僕も日立の良いところを知ってもらえるような活動をしていきたいと思っています。
また、地元への恩返しとしてサッカー教室などを通じて子どもたちと触れ合うことが多いですが、みんなの笑顔にいつも励まされています。あの素晴らしい笑顔がたくさん生まれる街にしていきたいですね。そういう環境を作っていくのが僕たち親世代の仕事だと思っています。
特に子どもたちには、日立市には山や川、海と自然に囲まれていて、日立市を満喫することのできる遊びはたくさんあるってことを伝えたいです。その遊んだ記憶は永久不滅なので、お父さんやお母さんにもどんな遊びがあったのか聞いてみるのもいいと思うんです。そういう風に、親の世代が子どもたちに伝えて、その子どもたちが大人になった時に、またその子どもたちに伝えられるような形になったら良いなと思っています。
Profile
本間幸司 (日立市出身)
1996年 浦和レッドダイヤモンズ 入団
1999年 水戸ホーリーホック(当時JFL) 移籍
※水戸ホーリーホックは2000年にJリーグ加盟
2000年 Jリーグ初出場(浦和レッドダイヤモンズ戦)
2011年 史上3人目のJ2通算400試合出場達成(ロアッソ熊本戦)
※GKとしても初出場から単一クラブでの記録達成も史上初
2024年 現役引退(J2最多となる577試合に出場)
2025年 水戸ホーリーホック クラブ・リレーション・オーガナイザー就任
Jリーグ功労選手賞受賞

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