創業者の精神 小平浪平
「自主技術、国産技術によって製作するようにしなくてはならない。それこそが日本が発展していく道だ。」
1874(明治7)年-1951(昭和26)年/栃木県下都賀郡家中村(現 栃木市都賀町)生まれ/東京帝国大学電気工学科(現 東京大学)卒
日立鉱山を買収した久原房之助の誘いを受け、1906(明治39)年に久原鉱業所日立鉱山に入社し工作課長を務め、1910(明治43)年に5馬力誘導電動機3台を製作。1920(大正9)年に久原鉱業所から株式会社日立製作所として独立。
電気機械の修理部門
小平浪平は、東京帝国大学を卒業後、小坂鉱山、広島水力電気株式会社、東京電燈株式会社を経て、1906(明治39)年に久原房之助(くはらふさのすけ)に請われ日立鉱山に入社しました。
小平は、工作課長に任命され、数少ない仲間と、40坪程の掘立小屋で、壊れた外国製の電気機械の修理を行いました。
機械の扱いが乱暴で、修理はおろか一から作り直すような状況の下、次第に小平たちは機械を製作するための知識や技術を身につけていきました。
「自らの力で電気機械を作りたい」と、国産技術にこだわり、他の電機メーカーが外国企業と提携するなか、故障原因の調査や製作方法の研究を地道に進め、1910(明治43)年、技術者仲間と共に「5馬力モーター」を完成させました。
同年、純国産技術による電気製品作りを目的とした工場の建設が久原に認められ、約4,000坪(1,267平方メートル)の「芝内工場」が新設されました。
1,267平方メートルの敷地に、本格的設備を備えた工場でした。(日立製作所 提供)
発展する工場とまち
1920(大正9)年、株式会社日立製作所が発足し、1929(昭和4)年には、小平浪平が社長に就任しました。
同年、広大な敷地に海岸工場が建設され、製品の大型化にも対応できるようになりました。
1939(昭和14)年には「多賀工場」が新設され、1952(昭和27)年に洗濯機を製品化したほか、掃除機や冷蔵庫、扇風機等の製造も行い、白物家電の基幹生産拠点として人々の生活の充実を支えるようになりました。1945(昭和20)年、太平洋戦争末期の米軍の攻撃により日立工場が生産能力の80%を失うなど、大きな打撃を受けました。
しかし、小平の「全員協力して平和産業に取り組もう」との指揮の下、様々な苦境を乗り越え大きく発展し、1969年(昭和44)年、市内には大みか工場が建設されました。
小平はインフラ整備にも力を入れました。海岸工場の隣接地には、社宅・社員寮、野球場や体育館等の運動施設も整備された「会瀬社宅」を造成しました。また、水道や電鉄・バス会社の設立、日立病院(現 日立総合病院)の開院、日用品等を市場価格よりも安価で販売する「供給所」の開設など生活環境の向上にも気を配りました。
さらに、創業当初から徒弟養成所(現 日立工業専修学校)を開設したほか、多賀高等工業学校(現 茨城大学工学部)の設立に協力し次世代の人材育成にも注力するなど、社会貢献を惜しみませんでした。
1939(昭和14)年、助川町・日立町が合併し、「日立市」が誕生しました。その後、日立市は企業城下町として発展し、今では、豊かな自然と産業が調和したまちとなっています。
「国の発展のためには、国産技術の向上が欠かせない」との信念を曲げることなく、常に新しいことに挑戦した小平。
その想いは、日立グループと本市発展の礎となり、現在にも受け継がれています。
日立初の輸出品である1920年代の「扇風機」
量産化に成功後、アメリカに30台を輸出しました。
日立が初めて製品化した電気洗濯機。
1952(昭和27)年に多賀工場にて生産されました。
1965(昭和40)年、「兎平供給所」前の出勤風景
市内各供給所の中でも兎平供給所は最大規模でした。(日立市郷土博物館 所蔵)
詳細
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