大煙突とさくら
人々を煙害から守るためにつくられた煙突と、荒廃した自然環境を回復させるために植林されたさくら。煙害克服へ、市民と企業の共生のストーリーがありました。
1905(明治38)年、久原房之助は「日立鉱山」を創業し、近代的な鉱山の経営に乗り出しました。日立鉱山の名前は所在地である「日立村」に由来します。
最新技術を採用した鉱山はめまぐるしい発展を遂げ、大規模な製錬所を建設しました。しかし、発展に伴い、鉱山から排出される煙の量は増え続け、周辺地域の農作物や草木を枯らしてしまいました。
鉱山は煙害問題を解決するため様々な対策を講じると同時に、枯れた農作物などへの賠償も行いました。庶務課長であった角弥太郎は地元との共存共栄を理想として交渉にのぞみ、住民側では23歳の若さで入四間煙害対策委員長となった関右馬允が、鉱山側と積極的な協働による解決をめざしました。
1914(大正3)年、煙害問題を打開するため、久原は世界一の高さ155.7mを誇る「大煙突」を建設しました。また、気象や煙の方向などによって製錬所の操業を調節する制限溶鉱も行い、煙害は激減していきました。
鉱山は荒廃した山々を回復させるため植林を開始、周辺地域の希望者へも苗木の無償配布を大規模に行いました。特に多く植林されたのはオオシマザクラという煙に強い品種の桜でした。鉱山によって260万本の苗木が植林され、72万本が無償配布されたと言われています。
煙害に強い植物の研究をしていた農事試験場では、オオシマザクラの苗木がうまく育つようになると、ソメイヨシノの苗を接木して、大量の苗木を育てました。
角はこの桜の美しさに惹かれ、1917(大正6)年頃から社宅や学校、道路、鉱山電車線路沿いなどに約2000本の桜を植えさせました。やがて桜は市内の至るところに植えられ、日立市は桜のまちとなったのです。
日立市の桜は、ただ美しいだけでなく、その背景に地域の煙害克服の歴史と、自然環境回復への悲願のものと懸命に努力を重ねた人々の歴史が秘められているのです。
日立鉱山の誕生
「日立鉱山」が成立する前、この鉱山は「赤沢銅山」と呼ばれていました。天正年間(1573~1593年)に佐竹氏によって試掘され、その後は江戸時代から明治時代まで、幾度となく開発が試みられましたが、いずれも長続きせず、長い間地方の群小鉱山のひとつに過ぎませんでした。
1905(明治38)年、久原房之助は「赤沢銅山」を買収し、その名を地元の「日立村」にちなんで「日立鉱山」と改め、この地に独立の一歩を踏み出しました。久原は銀山として経営危機を迎えていた秋田県小坂鉱山を銅山として再建、経営を安定させた経歴がありました。久原はその経験を活かし、36歳の若さで日立鉱山創業へと乗り出したのです。時は日露戦争が終った半年後のことでした。
鉱山の発展と煙害の深刻化
日立鉱山は、当時としては最新の技術により探鉱が進められ、1907(明治40)年末までに、その後の隆盛の核となる鉱床が次々と発見されました。埋蔵鉱量について確信を得た久原房之助は、続いて、他の鉱山の鉱石を買い入れて、製錬することを視野に、大規模な銅製錬所の建設を天童山大雄院の寺域に計画し、1912(大正元)年までに合計10座の溶鉱炉を完成させました。
鉱山が発展していった一方で、排出される鉱煙の量も必然的に増加し、周辺地域の農作物や草木が枯れるなど、予想を超える煙害が発生してしまいました。
周辺住民に対する補償は、会社の誠意ある対応により当初は比較的順調でしたが、製錬所に近い入四間などの集落では、被害は深刻を極めました。
角弥太郎の活躍
日立鉱山側の煙害対策の中心となったのは、当時庶務課長であった角弥太郎(かどやたろう・後の4代所長)です。角は、すでに久原とともに秋田県小坂鉱山において煙害を経験しており、日立に着任するにあたっても、自分の使命は煙害問題の解決にあると覚悟をしていたそうです。角は、「煙害に対する損害は、鉱業主が進んで賠償の責を果たさなければならぬ」という基本方針をたて、久原の同意を得て、地元との共存共栄を理想として交渉にのぞみ、しだいに被害者側との信頼関係と交渉のルールを確立していきました。
関右馬允の交渉
新田次郎の小説『ある町の高い煙突』の主人公のモデルとなった関右馬允(せきうまのじょう)は、1888(明治21)年7月23日、那珂郡枝川村(現在のひたちなか市)に生まれ、久慈郡中里村入四間の関家の養子となりました。
1911(明治44)年、23歳という若さで、入四間の住民代表として「入四間煙害対策委員長」となりました。補償交渉にあたっては、被害の実態を正確に調査・研究した上で要求案を提出し、また被害の実測や農業技術向上のため、鉱山側と積極的に協働するなど、公平かつ平和的な解決をめざしました。
百足煙道とだるま煙突
日立鉱山の製錬所の煙は、はじめは八角形煉瓦造の24メートルの高さの煙突から排出されていました。その後、煙害に悩み、1911(明治44)年に長さ約1.6kmにおよぶ、神峰山の山腹をうねうねと這い上がる神峰(百足(むかで))煙道を築きました。これは、途中の十数か所に排煙口を設けて分散排煙するもので、日立鉱山の技術者たちの苦心の産物でしたが、失敗に終わりました。
1913(大正2)年には、政府の命令により、煙を空気で希釈してから排出する煙突を造ることになり、高さ33メートル、直径18メートルの「だるま煙突」を完成させました。内部に6基の卵型の煙突を抱え込んだ「だるま煙突」は、政府の指示する基準は達成したにも関わらず、かえって煙害が激化したことから、「阿呆煙突」とも呼ばれました。
制限溶鉱と気象観測所
煙害の激化に悩む角弥太郎は、気象や作物の状況、煙の方向などを判断して溶鉱炉の操業を加減し、排煙の量をコントロールすることにより煙害を低下させる方法「制限溶鉱」を提案し、実施に移しました。制限溶鉱は、神峰山測候所を中心として行った気象観測の結果を反映させながら、戦後まで続けられました。
1951(昭和26)年、煙の中から亜硫酸ガスを回収する装置が大煙突に設置され、気象観測の役割も小さくなり、翌年には廃止となりました。その後、日立市が観測を引き継ぎ、1952(昭和27)年6月に「日立市天気相談所」として生まれ変わり、現在も観測が続けられています。
農事試験場の設置と大植林
角弥太郎は、1908(明治41)年、伊豆大島の噴煙地帯にオオシマザクラが自生することに着目し、鉱山の社宅周辺にオオシマザクラの試験的な植樹を行いました。翌年には日立村大字宮田字福内に農事試験場を設置しました。
この試験場は、煙と植物の間の因果関係をさぐり、煙害の適正な補償に役立てるとともに、煙に強い植物の開発や、苗木の育成などに大きな役割を果たしました。オオシマザクラの苗木の大量栽培にも成功し、1914(大正3)年には、試験場で100万本以上の苗木が育てられました。
1915(大正4)年3月、「大煙突」の完成により被害が減少すると、角は、自然環境を回復させるため、オオシマザクラをはじめとする煙に強い桜などの植林を、ただちに開始しました。
※写真左:手前の神峰(百足(むかで))煙道の奥に、オオシマザクラが今でも咲き誇っています。
大煙突の建設
当時信じられていた煙害を軽減する最良の方策は、煙をできるだけ薄くして、低い煙突から排出することによって煙を狭い範囲に留めることでした。しかし、久原房之助は、火山が高く煙を噴いてもさほど煙害をもたらさないことや、それまでの経験から、煙突を高くして煙を上空高くに拡散する方法を主張しました。
この当時の常識を覆す久原の提案は、受け入れられがたいものでしたが、部下や政府を説得し、「日本の鉱業界の一試験台」として「大煙突」の建設に踏み切り、1914(大正3)年12月20日、当時世界一の高さを誇った「大煙突」がついに完成しました。
大空に煙が吐き出されると、製錬所周辺にたれこめていた煙が消え、これを目にした角弥太郎は、のちに「手の舞ひ足の踏むところを知らぬ喜び」と感激を表現しています。
その後、大煙突と制限溶鉱の対策があいまって煙害は激減していきました。
さくらのまち、日立市へ
大煙突の使用が始まった1915(大正4)年以降に、日立鉱山はさらに煙害により被害のあった山林をはじめとして、大規模な植林を約18年間にわたり展開し、概算で500万本以上の苗木を植樹しました。そのうちオオシマザクラの苗木は260万本に及んだと言われています。それと同時に周辺地域の希望者に対しても苗木の無償配布を大規模に行いました。
農事試験場では、オオシマザクラの苗木の育成が軌道に乗ると、オオシマザクラの苗木にソメイヨシノを接ぎ木し、苗木を大量に作り出しました。角弥太郎は、このソメイヨシノの美しさに着目し、1917(大正6)年頃から社宅や学校、道路、鉱山電車線路沿いなどに約2,000本を植えさせ、これが「さくらのまち、日立市」の原点となりました。
日立市の桜は、ただ美しいだけではなく、その背景に、煙害克服の歴史と、自然環境回復の悲願のもとに懸命に努力を重ねた人々の歴史が秘められているのです。
※写真右:角弥太郎の業績を称え建立された「桜塚」(高鈴町)
この歴史をモデルに小説化、そして映画化へ
この大煙突の歴史をモデルに、1968(昭和43)年、直木賞作家 新田次郎が小説『ある町の高い煙突』を執筆しました。
さらに、小説に描かれた、農村に生きる青年たち、鉱山の経営者たちの葛藤、煙害の被害者と加害者が手を取り合って大煙突を造るという奇跡の物語が映画化され、2019(令和元)年6月から全国で上映されました。
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